意識の切り替え

 Lutwig van Beethoven
 

 これをあなたはなんと読むだろうか。恐らく一般的な日本人なら 
 

 ルートヴィヒ ヴァン ベートーベン
 

 と読むのではないだろうか。
 

 しかし、本場ドイツでは(要するに現地の正しい発音では)
 

 ルートヴィヒ ファン ベートホーフェン 
 

 というのだそうだ。もちろんカタカナで表現することに限界はあるがそれが最も近いようである。
 

 日本では、名前に関する教育の取り決めが実に曖昧である。これは子どもたちのためにならない。むしろ悪い影響しか与えない。
 

 海外へ留学すると、当然現地の言葉で会話をすることになる。そんな時に、「ベートーベン」とのんきに日本発音していては通じないのである。正しい教育を受けてきた結果がこれだ。
 

 日本は漢字とひらがなとカタカナを使い分けるという非常に特殊な環境のために、この悪い習慣ができてしまったのだと思う。
 

 わたしが中学生の頃、クラスの男子という男子はみんな三国志を読んでいた。劉備曹操。その他たくさんのキャラクターたちの活躍に胸が熱くなったものである。しかし、では三国志の舞台である中国へ行って「りゅうびってすごいですね。ぼく尊敬してます」といっても通じないのである。英語が喋れる中国人と会話をしたってそうだ。「ぼくはしょかつりょうが好きだなあ」といっても理解してもらえない。
 

 わたし自身おかしいと思ったのだが、例として中学の教科書で朝鮮の三つの国を習うとき、現地の言葉で習った。つまり高句麗はコグリョ、百済はペクチェ、新羅はシルラだった。これが義務教育では定められていたようだ。しかし高校へ入って世界史の教科書をもらうと、この三国を含め、見事なまでに日本発音になっていた。
 

 中学と高校で教育方法が一貫していないというのはいががなものだろうか。いいはずがない。
 

 それに比べて海外へ目を向けると、見事に正しい発音をしている。多少は訛りがあったとしてもオザワセージとかイトーヒロブミとか正しくいうので我々日本人にもちゃんと伝わる。建設的なディスカッションをする上で、名詞が正しく伝わるのは最低限の条件だ。
 

 特に漢字発祥の国中国でも、日本名をちゃんと読んでいる。日本の漢字を中国読みしていない。韓国でも同様である。このたった一つの意識の切り替えで、世界に通用する人物の土台ができるかどうかが決まってくるのだ。たった一つである。それさえ変えれば、日本人の基礎的競争力は飛躍的に上昇すると思う。
 

 この意識改革をするなら、世代を超えた時間が必要となるだろう。しかし、それだけの時間をかけてでもいいからやっておくべきである。
 

 最近、新聞でもやっと本国の呼び名が併記されることが多くなってきた。教育に携わっているわけではないので分からないが、名前の呼び方も改善されているものだと考えたい。
 

 何年か前に買ったドイツ語のテキストのコラムに、これと同じようなことが書かれていた。その筆者によれば

「まるで自分の受けてきた教育が間違っていたのではないかと思ってしまった」
 

 と書かれていた。留学している日本人は、自分が受けた教育によって足を引っ張られてしまうことがあるように見受けられる。これでは何のための教育か。再考している時間はない。日本の教育も、世界的スタンダードに立つべきである。