知り合いから

 知り合いから、

 「エッセイを読ませてほしい」
 

 アピールがすごいので、これを書く。

 エッセイを書くことがすごいのかといわれると、まったくすごくないことだとわたしは考えている。思ったことを書くのがエッセイだし、それこそ読む価値があるかどうかはまったく読む人次第だ。
 

 わたし自身は割と広範囲にわたってエッセイの題材を求めているし、実際に書いている。
 

 その日に起こった出来事を書くこともあるし、その出来事から連想したことの感想やこうあるべきだという考えなどを書き綴っている。
 

 各文章の内容は、理想を語っていることが多い。そして、大体「日本はこうあるべきだ」と理想の姿を提起している。
 

 エッセイのいくつかを読み返しても、「日本」という言葉の入っていないエッセイのほうが少ない。国に対して少し批判的なことを書いたとしても、わたしは国に絶望しているわけではない。一般的に、批判される場合というものは改善の余地があるからであり、批判すらなくなった時が真に危機なのである。わたしはまだ充分に改善の余地がある批判を書くことがほとんどだ。逆に解決の余地がない問題については、わたしの知識を超えており恐らく書くことができないであろう。
 

 こうやってエッセイを書くことで、気持ちの整理をすると同時に自分が心の中では本当にどう思っているのか、ということも見えてくることがある。
 

 「一文字でも書いてみること」と「書こうかと考えている」状態ではまったく違う。雲泥の差である。
 

 物事を進めようとするとき、一番いけないことは「ただ悩む」ことである。これは時間をただ浪費するだけで生産的でない。悩む時間というものも必要だが、実行しようかどうか悩むというのはダメだ。
 

 ただ、悩む時間というのはエッセイにとって大変重要だとわたしは考えている。実体験からそう思う。

 「なぜこうもうまく行かないのか」

 「どうしてこうなるのだ」
 

 そう考えることによって自分の中にエッセイを書くタネがたまっていき、いざ書くときになるとそれらが火山の噴火のように吹き出してゆく。そうして書かれた文章は惰性的でなく、ナマの感情で描かれたより良い環境を求める健全な主張となる。
 

 もしここで悲観的な文章を書いてしまう人がいるとすれば、書くことにそれは向いていないのかもしれない。わたしは文章を書くときは必ずポジティブになっていく。書くとネガティブになってしまうという人は、強いて文章を書くこともないだろう。それに、単に書くことに向いていないのではなく、その時の気持ちがたまたま書くのに向かない状況だったのかもしれない。とにかくわたしの場合はポジティブになる。そういう話である。
 

 書く場合の題材は、わたしの場合は瞬間的に思いつくことがほとんどだが、その「思いつく」タネは一日のどこかから生まれてくる。ちょっとした怒りや喜びをふくらませて、それに少しだけ自分の思想や理想を織り込む。そうして出来上がるのがわたしのエッセイだ。
 

 原稿を書く場合に大事になってくるのは、文字数である。大学などのレポートでは二千字とかそういう指定が多いようだが、エッセイや小説などの賞の場合、指定は大体原稿用紙換算である。
 

 以前パソコンで書き始めた頃、ものすごく書いたのに文字数が思ったよりも少なくてがっかりすることがよくあった。しかしこれは単純に文字数を計算していたからであって、原稿用紙に換算していれば結構な文字数を書いていたのだ。
 

 ワードなどは純粋に文字数を計算するため、思ったよりも書いていないように感じられてしまうのである。これは紙の用紙から入ったわたしにとっては嫌なことだった。正確に書いた量が把握できないので、書くモチベーションがめちゃくちゃ下がる。
 

 量をたくさん書くというのは案外大変に思えてくるかもしれないが、ある程度の量を超えてくると「ランナーズハイ」のようになって、むしろどこで終わりにしようかと悩んでしまうくらいである。書こうと思えば永遠に書けるのかもしれないが、わたしの最も長かった執筆時間は半日で、日をまたいだことがない。それがネックといえばそうかもしれない。
 

 わたしは仕事を残したままその日を終えるのが非常に苦手で、どうしてもやりきってしまうまでは無理をしてでもやらないと気がすまない。作家のように何ヶ月もかけて小説を書くというのは本当に大変な作業だと思う。
 

 チキンな人間なので、パソコンで書いていると

「データが消えたらどうしよう」
 

 ということが常に頭の中にある。パソコン特有の悩みだが、便利さゆえにどうしようもない。
 

 エッセイを一本書き終えると、必ず紙にプリントアウトする。それに万年筆でサインをしたら、そのエッセイは完成だ。
 

 だが、誤字脱字というのはプリントアウトするとなぜか発見しやすい。その目的でプリントすることもあるし、バックアップという面でも威力を発揮する。
 

 結局たどり着くのは、

「紙最強」
 

 の三文字である。これなくしてわたしたちの文明は存在し得ない。どんなにデジタル化が進んでも、紙が消えることはない。
 

 しかし悲しいことにプリントするにはプリンターという機械を使わねばならず、それなしではディスプレイの文字もただの二進法の表現に過ぎないのだから悲しいものだ。電子書籍の発展によって、紙の書籍の重要性もこれから増すだろうと思う。特に紙で書いたものは太陽光や湿気で劣化するので、それらを避けて長時間保存する技術、ないし劣化しない紙を作っておくことが、公文書などの保存では求められるかもしれない。
 

 取り留めもなく書いたが、適当に一時間も書いているとこんなものである。参考までに。エッセイの一つの形が、これだ。