書く楽しさを

 わたしの知り合いに、塾をやっているものがいる。その塾長は、文章を書くことについてこういった。

「原稿用紙?ありゃだめだ。小学校の時の夏休みの宿題がトラウマだな。読書感想文を思い出してまったく書けん」

 そういった。

 しかし、同時にこうもいった。

「パソコンだったらね、いくらでも書けるね。フラストレーションがたまっている時なら、レポート用紙三枚はあっという間に書いちゃうんじゃないかな」

 事実彼はそういう人である。

 なぜこうも日本人は原稿用紙に憎悪にも似た感情を抱いてしまうのか。

 わたしは原稿用紙が大好きである。

 まず、原稿用紙とは何なのか。googleで翻訳してみるとManuscript paper もしくは Japanese writing paper と出てきた。

 よくよく考えてみると、なぜ日本の文章作成には原稿用紙を使うのか。第一の目的としては文字数を数えるためだろう。しかし、これは恐らく明治以降に作られたものだと思う。考えてみてほしい。日本人は筆で文章を千年以上綴ってきた。筆で原稿用紙が書けるだろうか?かなり難しいと言わざるを得ない。現実的でない。だから、たぶん原稿用紙の歴史は近代文学が始まった明治から使われ始めたものだろう。

 一体誰がその始祖であるかは今回は置いておくとして、なぜ、ここまで嫌われるのか。

 わたしは、教育の仕方が悪いと思う。原稿用紙を使えばなんでもできるという可能性を教えずに、ただ義務的に宿題として書かせるのではまったく意味がない。「原稿用紙アレルギー」を増やすだけである。果たして夏休みに読書感想文を書く意義がどれだけあるのか。具体的に例をあげて説明してほしい。

 基本的に、原稿用紙を前にペンを取ったら、もうその人が立っている土俵はプロの作家と同じである。そう聞いて、ワクワクしないだろうか。確かに作家とは差があるかもしれない。しかし物理的には同じなのだ。子どもたちにそのことが教えてあげられたら、少しは文章づくりが楽しくなるのではないかとわたしは思う。

 現在、子どもたちの作文コンクールではワープロ不可というものがほとんどだ。逆に小説などの新人賞では手書き不可の賞がかなり増えてきた。

 もし、子どもたちがワープロソフトを使うことでより質の高い文章を書けるのだとしたら、それは奨励されるべきではないだろうか。それに抵抗のある「大人たち」がまだいるのだとしたら、せめて手書き部門とワープロ部門を併設したらどうだろう。それぞれに選考基準を変えてみるなど、いくらでも工夫の余地はあるだろう。

 伝統だからと惰性的に続けているのなら、やめてしまったほうがいい。子どもたちは創造性のかたまりだ。それを大人たちの価値観や尺度に当てはめて考えてしまうなどと、言語道断だ!

 もし、パソコンを使っていると漢字が書けなくなるとかいう大人がいたら、その人物は豆腐の角に頭を激突させてみるといいだろう。

 子どもたちは漢字を充分使う訓練を受けている。書き取りや、日々のテスト、ノートを取るのもちゃんと出来ているではないか。子どもたちはノートをパソコンで取っているとでも言うのか?むしろ現代の社会人のほうが漢字を書けないのではないかと思う。

 子どもたちの可能性を、大人のつまらない理屈で狭めないでほしい。

 原稿用紙は、別に嫌われても構わない。結果的に、文章が書けるようになればいいとわたしは思っている。最初に書いた塾長の例もあるとおり、最近では媒体を問わず文が書けることが大事だ。ただ、原稿用紙を使うことは、日本語の文章を書く上での基礎的な部分を養ってくれることは間違いない。だからわたしは手書きを最初は勧めるが、別にどんな方法で文章を書いたっていいと思っている。

 ブログやSNSで文章を書く機会が圧倒的に増えた。そんな時、正しい文の書き方をするか、それとも顔文字に頼った説得力の欠ける文章を書くか。その辺りで人の品格が問われてくるだろう。

 これから、正しく文を書けることが大切になってくる。そして文を書くことを楽しんでほしい。