ちょっとこれは偏屈な例になってしまうかもしれないのですが、テレビなどで「A5ランクのお肉です」と言っているのを見て「おいしそうだ」と思うのは野蛮ではないでしょうか?
お肉というのは元は生きていたウシやブタやニワトリでして、スーパーに出現する赤い塊は栽培されたものじゃあないのです。
あれは殺したから赤い切り身になってるわけです。
正確に言えば、殺して切ったからですね。
そんなことをテレビで言っている一方で、地球各地の部族の人たちのところへ行って狩りを体験する番組があったりもします。
ウシの血をミルクに混ぜて飲むのを見て「うえッ……」と思うのは同感ですが、それが野蛮かと言えばそんなことはないとわたしは思います。
野蛮というのは人間の思い上がりが産んだ言葉ではないかというのがわたしの考えです。
ヒトは従属栄養生物と言って、他の生き物などを食べることによってエネルギーを摂取しなければ生きていけないのです。
言ってみれば、生まれた瞬間から殺すことを宿命づけられているのです。
では、食肉の生産に関して言うと、日本の屠殺は動物たちに苦しみが少ないよう配慮されています。
それと比べれば、弓矢や銃でハンティングをするのは野蛮に見えるかもしれません。
ですが、一般的な日本の屠殺というものはとてもシステマチックでして、なら、システム的に「苦しみを少なく」すると野蛮ではないということなのでしょうか。
どうでしょう?
結局は殺しているわけです。
苦しみをゼロにすることはできません。
しかもより効率的に、部族の人たちの何倍もの量を屠殺しています。
それが食べられずに捨てられることも多い。
そしてその日食べない命まで奪う?
日本では美食というものが非常に発達しています。
その中で、ひどいじゃないかと思う食べ方がないわけではありません。
柳川鍋など、結構残酷じゃないですか。
それがおいしいのだということも否定しませんし、野蛮だからやめろと言うのでもありません。
一歩引いて考えてみるわけです。
そのほか、多数の殺生を禁じるのなら、イクラ丼を見たら卒倒する人もいるかもしれません。
ウシ1匹を殺せばそれでたくさんの人が肉を食べられますが、イクラは卵1個1個が命なんです。
残酷かもしれませんよね。
ユダヤ教から見たら、「母の乳で子の肉を煮てはならぬ」というわけで、シチューはアウトですね。
日本では親子丼なんていう親鳥の肉を子の卵でとじて食べるという考えてみるとなかなか前衛的な食事もあります。
日本には一般的に宗教的規範によって食を制限するということがありません。
それは逆にいってみれば、「良識」という不安定なものに頼って無制限に残酷で野蛮なことをするかもしれない、ということなのではないでしょうか。
システム的に清潔に、消費者は命のことを考えなくてもお肉が食べられるというのは、ある意味危険だと思います。
自分は自分の手を汚したくない。
だけれど、お肉は好きだ。
どちらの気持ちも分かります。
正しいと言い切れるものはないでしょう。
矛盾の塊のようですが、野蛮ってなんだろう。
そう思っている、これはわたしの意見です。