テキトー心理

 わたしは一時期サボテンに凝ったことがあり、今もその余韻がのこっている。

 「サボテンは水をやらなくてもよい」

 「ちょっとズボラな人でも大丈夫」

 と言った文句を見る時があるが、それは恐らく販促用の文句であろう。

 わたしの経験では、そうやって買うとまず枯れる。なぜならわたしがそうだったからである。
 

 一ヶ月に一度の水やり。
 そう考えていると、ほぼ間違いなく枯れる。
 

 人間とは案外テキトーな生き物だ。わたしの場合、ズボラでいいといわれたサボテンを育ててみたら見事に枯らしてしまったが、二、三日に一度世話をしなければいけないベタはもう飼って4年くらいになるのではないだろうか。(現在二代目)
 

 考えられる理由として、ベタの場合は結果がすぐに出るということがあると思う。世話をしなければ水槽は汚れるし、魚も元気がなくなってくる。その反面、ちゃんと世話をすればなんとも美しいヒレを広げ悠々と水槽の中を泳いでくれる。熱帯魚が泳いでいる姿というのは癒やされるものである。 サボテンを眺めるのも幸せなのかもしれないが、わたしの場合はあまり長期的な計画を実行するのが苦手ということもあって、植物(サボテン)の成長をゆっくり見守ることができなかったのかもしれない。老成してくると、土いじりが好きになる人は多い。わたしもそうなるのだろうか。そうしたらそのときもう一度サボテンと向き合ってもいいかもしれない。
 

 植物も、一年草もあれば千年とたつ神木もあるし本当に奥の深い世界だ。魚も奥深さでは劣らないが、大概魚の寿命は人間よりも短い。特に観賞用の熱帯魚で何十年と生きるものは少ない。何世代にも渡って育てられる木と違って、魚は年単位でめまぐるしく変わる。
 

 生物全般的にそうだが、小さいものほど寿命は短い。現に大きく育つことのできる魚は、小型の魚より長命である。
 

 ベタの寿命は二年というところだろうか。実は今いるベタは家に来て二年経つ。ショップへ出荷される時点ではだいたい生後半年なのだそうである。彼の生命はもう二年半たっていることになる。悲しいことに魚の寿命は計算できてしまうのだ。人の寿命を計算しようものなら非難轟々だと思うが……。
 

 こう書いてきたが、実は我が家のサボテンは全滅したわけではない。甲斐甲斐しい努力によって、何株かは今も健在である。健在どころか、「子吹き」と呼ばれる独自の繁殖によって増えすぎている。
 

 サボテンの子吹きは進行すると見た目がかなりグロテスクで、写真の撮り様によっては「風の谷のナウシカ」の腐海の植物と言っても過言ではない。前にその写真を載せたことがあるかもしれない。
 

 増えるという点ではまったく世話がいらない。問題は増えた命をどうするかだ。
 

 だが不思議なことに、植物が増えて枯れてしまってもわたしの場合は極端に残酷だとは思えない。わたしだけではないと思う。それは自然の成り行きという気がするからだろうか。しかし魚が増えすぎてしまって、例えば川に放したとか聞くと生命を奪ってもいないのにものすごく悪いことをしているように思える。魚は生物として生きているから大事にしなければいけないのだろうか。その辺りの意識のあり方というものは、不思議というか勝手というか、人間の心理は本当にテキトーである。