手書きは不利?

手書き原稿は不利なのか?わたしは疑問に思っている。手で書くことは、書いた内容を理解しておくのに有効だ。ここ何日かワープロ原稿を書いているわけだが、読み直してみて、「こんな文書いたっけ?」という疑問が生まれる頻度が手書きよりも多いと感じる。

 大学にいけば、ワープロ原稿を書くことも多くなってくるだろう。そんなとき、手書き原稿は認めてもらえない。以前Webサイトで読んだことがある。その人は、アメリカに留学していたことがあったのだそうで、それはたぶん90年代の話ではないかと思う。その当時から、大学では手書きのレポートは認められなかったという。みなパソコンを使っていたが、アフリカ出身の学生が、ひとりタイプライターを使っていたのが懐かしいと書かれていた。

 英語圏では、すでに手書きの原稿は認められないのではないか。要は、日本人が手書きがいい、とか、そんなものは受け付けないとか、受け付けないのはおかしいとか、議論しているレベルが低すぎるのではないだろうか。

 文字の文化として手書きを大事にするものだ、という考え方は日本において大きな比重を占めているだろう。それがよくない方向に勝手に育っている。それが日本人の書くという行為への考え方を狭めている。

 世界的に見れば、ワープロ原稿だろうが、手書きであろうが、要は優れていればいいのだが、時代の流れを見てみると、それがワープロ原稿であった方が扱いやすいし、望ましい。そんな感じではないだろうか。

 ノートをとる。それをノートパソコンでやったらどう思うだろうか。「ノート パソコン」名前の通り、使ってみたらどうだろう。でもそんなことをするのはごく少数の物好きな連中だけだろう。けれど、これからの時代、もしかするとそれが当たり前になってくるかもしれない。大学生ぐらいになってしまえば、どんな風に文章を書き残すかなど本人のまったくの自由だといっていい。それをどっちみち印刷してまとめなければいけないのなら、ワープロ原稿のほうが優れているに決まっている。こういうとき、考え間違いをするとんちんかんがいるものだが、すべてをワープロにすればいいというものではない。極端な話、漢字の書き取りをワープロでやる?それはタイピングの練習にしかならないだろう。

 わたしが中学生の時、ひとりじいさん先生がいた。かれは、期末テストの問題を手書きでかいていた。パソコンは扱えなかったのだろう。彼のテストは不評だった。問題が想定外で、今考えてこそなかなかとがっていて面白いのだが、得点を第一に重要視しているエリートさんたちには困る問題以外の何者でもない。この先生は、わたしが中学二年生を終える年に、定年退職を迎えた。恐らく、手書きで期末テストを書いていた最後の世代であったのだろう。その人が退職して、今年で○年になる。もう、どんな先生も、パソコンで試験問題を作っているだろう。逆に言えば、手書きでテストが作れるような猛者は残っていないだろうと思う。別に手書きのテストだからありがたいなんてことはなにもないのだが、少し寂しさのようなものを感じたのだ……。

 デジタルネイティブ。その世代が日に日に増えてくる。これから、手書き原稿というものは、単なる骨董的価値しか持たなくなってくるかもしれない。それでも、社会全体がより高いレベルで議論なり思考なりを行ってくれればわたしはなにも文句はない。ただ、手で書くことができるという能力は捨ててはいけないと思う。ワープロできれいな書類を作ることができる。それは大事なことだ。しかし、手書きで手紙を書いたり、お礼の気持ちをのべたりすることができないようでは、人間として半人前であろう。

 お礼状を書くとして、それは手書きであった方がいい。それかせめて署名は手書きで行っておくべきだろう。手書きで書いた文章は、試行錯誤のあとがみてわかる。気持ちを込めているんだということが、生に伝わってくる。その感覚を忘れてはいけない。

 ワープロは万能か。否。現代はまだそこまでいっていない。発展途上だ。これからの動きがどうなるのか、わたしは注視する。

 以前だが、気になることを聞いた。マサチューセッツ工科大学では、会議の時にプロジェクターもパソコンも使わないのだという。大きな紙に、それぞれの発言やそのときに出たアイデアを書いていくのだ。これがもっとも早く、彼らに言わせれば「残念ながら、PCなど、どの点をみてもまだ実用にはほど遠い」なのだそうだ。

 世界の先端をいっているマサチューセッツ工科大学の研究者がそういっている。だとしたら、プレゼンテーションをいかにきれいに行うか、ということを除けば、議事録を延々とパソコンに打ちこむ仕事などごみだといいきれるだろう。

それはごみか。確かに世界の先端をいく議論にとってはごみかもしれないが、社会は効率によってのみ成り立つのではないから、この「ごみ」も必要なことなのだと思う。少なくともわたしはこのごみを許容してやる寛容さは持ち合わせているつもりだ。自分がごみ作業をするとなれば話は変わってくるのだが。