制作者は楽しんでいるか?

今から20年ほど前のテレビゲームの状況を思い出すと、とても活気と可能性と楽しみにあふれていたような気がします。

今のゲーム業界は、「ゲーム」という立ち位置が確立してしまったためになんだか不自由そうです。

自由で高精細な3Dが作れるようになって何年もたちました。

たとえば画質という面から言えば、昔はムービーパートで見られるだけだったようなキャラクターが常に動かせるようになりました。

そうです。

夢が叶っているのです。

あのキャラクターを動かしたい、そんな夢は叶ってしまいました。

時がたつにつれ、クールジャパンなどと言った名前で、ゲームが戦略物資のようになりつつあります。

しかしわたしは、近年のゲームにそこまで魅力を感じません。

制作者たちが楽しんでいるという気持ちが感じられないからです。

昔子どもだった自分がゲームをプレイしていたとき、それはそれは楽しかったものです。

たぶん、それは制作者も楽しんで作り、楽しむだけでなくゲームという表現で自らの思想を表現しようと試みていたからではないかと思います。

昨今のゲームは、時間をプレイヤーから削り取ってゆく道具のように見えます。

思想や可能性を非言語的にさえ語りかけてくるような作品を見ません。

ゲームがジャンルと化してしまい、制作者は数と売れるゲームをひたすら作らされているのではないか、そんな気さえします。

もっと楽しいものなのに、可能性は増えたのに……。

なぜでしょう?

ゲームはクリアしたら終わりなのではないと個人的には思います。

わたしの心には、そして思考の中には、ゲームが教えてくれた考え方や楽しみ方、楽しんだ思い出がたくさん残っています。

今のゲームをした人びとが20年経ったとき、それを思い出して心の糧にできるでしょうか。

戦略物資ではないのです。

心の、塊なのです。