休みの終わり

 ゴールデンウィークもまもなく終わろうとしている。今回の連休は、わたしにとってもとても早く感じられた。

 休みというのは、何歳になってもいいものだ。昔は休みといったら、父や家族と一緒にどこかへ出かけたり、公園や広場でボールを使っていろいろ遊んだりもしたものだ。

 子どもの頃というのは本当に豊かなものだと今にして思う。ボール一つさえあれば、何時間だって遊んでいられた。わたしたちは常に新しい遊びと刺激に動かされて、豊かな子供時代を送ったのだと思う。日が暮れるまで遊びに遊んで、家へ帰っていった。懐かしい日々だ。

 そこから考えてみると、現代の子どもたちは、ほとんど大人に操られているといっていい。ゲームやスマートフォンの普及と発達で、生活は豊かになっただろうか。一見自由になった気がするが、そんなことはない。子どもたちは、そんなものをやっている限り大人の敷いたレールを走ることしかできない。彼らは本来可能性に満ちていて、一秒一秒が将来への糧となるものだというのに……。大人の引いたレールなんて、子どもの可能性の前においてはまったく硬直しきったつまらない理論に過ぎない。子どもたちは、そんなことは超越した存在なのだ。

 彼らの持っている可能性を無限に伸ばしてあげるのが大人の仕事であろう。いったい今の大人たちは、子どもたちから自由や想像力や時間を搾取することしか能がないのかと、まったくもって悲しく思う。

 子どもたちは、もちろん楽しいことが好きだ。ゲームだって楽しいからやっているのだろう。それはわたしもそうだった。けれど、気がつけばディスプレイを眺めている生活はよした方がいいと私は思う。大体、現代においては大人になればどっちみちディスプレイとにらめっ子する生活になるのだから、子どものうちからそんなに「仕事」に励まなくてもいいとわたしは思う。

 本当に楽しいこと、それも子どものうちにしか感じられないことはあるはずだ。

 わたしたちは、ごく原始的な欲求を持っている。子どものうちは、それらをより強く感じられるだろう。

 虫を取ったり、駆け回ったり、釣りをしたり、美しい風景を見たり。子どもの時に、ディスプレイじゃあない本当に美しい本物を見ておいてほしいと思う。

 公害がひどかった一時期と比べれば、現在の河川は随分綺麗になったと思う。都市の設計も、自然と共存するように変わってきている。つまり、子どもたちが再び自然の中に囲まれて生活する環境は整いつつあるのだ。

 しかし、ごく一時的に異常発達した文明の利器が、自然から子どもたちを遠ざけていはしないだろうか。

 現代っ子から見たら、虫取りなんてもしかしたら野蛮なことだと思うかもしれない。けれど、虫を取るために自然の中を駆け回り、なんとか虫を取る。それは変えがたい喜びだし、駆け回ることで体の基礎ができてくる。子どもの時にできた丈夫な体は一生を左右する。何にも変え難い宝だ。

 虫を取っても、もしかしたらその虫は死んでしまうかもしれない。けれど、子どもたちはそれから命の大切さを学ぶことができる。

 生きていることとは何なのか、答えられなくてもいい、ただそれを感じておいてほしい。

 ステーキを見ておいしそうだというのに、屠殺される家畜を見るとかわいそうだという。この矛盾はそう簡単に解決できるものではないが、自分が生きているということは、何かの生命を奪っているのだという、どうしようもない命題にぶつかってみることも必要なのだとわたしは思う。

 ゴールデンウィークが終わる。その寂しさみたいなものが、この文を書く原動力になった。こういう休みの日には、過去や現在に思いを馳せてみるのもいいかもしれない。