文章戦国時代

 知り合いへ、大学の宿題について聞いた。

「手書きか、ワードか?」

 答えは

「ワードに決まってるじゃん」

 現代になってはそうなるのが普通らしい。

 まず、教授が宿題を読むという時点で、物理的に読めない字があるのはまずい。さらに、データの管理の面からいっても、デジタルの原稿のほうが扱いやすい。

 いわれてみれば当たり前のことばかりだ。

 別の知り合いが大学生になったとき、宿題は手書きかどうか聞いた。すると彼は

「パソコンだよ。手書きはありえない」

 そういった。それをいまさらながら思い出した。

 パソコン原稿は早い。凄まじい速度で出来上がる。これだって、印刷してしまえばもう出来上がりなのだ。文字数カウントだって自由にできるし、校正も推敲も自由自在。わからない漢字だって変換できてしまう。そして誰が書いたとしても、読みやすい活字となって印刷されてくる。こんなに便利なものを使わない手はない。

 しかし、ごく一部の間で、手書きが良いのかそれともワープロの時代に合わせるのかという議論があることは忘れてはならない。

 もっとも、これはごく一部の話で、全体の勢いとしては圧倒的にパソコン全盛だ。

 物語を作るストーリーテラーとして、一度は手書きで書いてみる必要があることは確からしい。けれど、そうまでしてやることなのか。新しい時代には新しい物事のやり方があっても良いのではないか。

 新しい時代の中にも、古さや伝統に心惹かれる者がいるのも歴史が証明している。わたしはこの傾向がある人間だと思うが、それでもこうやってキーボードで文字を打っているとあまりの高速さに驚くとともに、便利さを痛感する。

 特にワープロ文は早いので、自分の脳の速度についてこられることが一番素晴らしい。手書きだと、自分の脳の速度に手が追いつかず汚い字になったり、もしくは漢字が思い出せなくて手が止まったりする。非常なストレスである。モッタイナイ。

 ワードでいい文が書けるんだったら書いたらいい。

 いまどき、もし手書きで書いたってどこかの段階でワードに打ち込まなければいけない。それは大変な面倒だ。だったら最初からデジタルで原稿を書いたほうが良い。

 ただ、多くの作家がデジタルで原稿を書くようになって、作家の生原稿が残らなくなったのは寂しいものだと思う。作家の愛用していた万年筆とか、原稿用紙とかがなくなって、どのパソコンでも、どの机でも良くなってしまうのだろう。

 考え様によっては、文字を書く敷居が限りなく低くなったといえる。つまり、パソコンさえあれば文章は作れる。万年筆やら原稿用紙やらを揃えなければいけないという経済的な縛りはなくなるのだ。

 どこの誰だって作家(アマチュアもしくはプロ)になれるチャンスがある時代が来たことだといえる。ブログは無料で作れるし、情報の発信はまったくの自由。ただし責任は自分でしっかりと取らなければいけないが……。

 大変な時代になった。

 これから、文章の戦国時代になる。

 売れる文がどれだけ書けるのかで、生き残れるかどうかが決まっていく。本当に価値のある文章は希少になっていく。そういう価値のある文を書き残し、また価値のある文章を見つける能力を持っていること、それがこれから大切になってくるだろう。

 日本語はこうだから面白い。手書きがどうの、ワードがどうのと世界中から孤立して議論をし合っている。本当にこの国は文化的にガラパゴスだ。