わたしは文章として司馬遼太郎リスペクトです。
以前なにかの本で司馬批判を読んだおぼえがあります。
なんの本だったか思い出せないのですが、その人は物語の後半以降が雑になる、というようなことをおっしゃっていた気がします。
その本は単一の著者によるのではなくて、複数人が司馬遼太郎を語るというような主旨だったと記憶します。
「雑になる」
と言われてピュアな司馬ファンだったわたしはイラッとしたのですが、最近になってそれがなんとなく分かるようになった気がします。
例を出せと言われると、ちょうど1つだけ、些細な例ですが思い出せることがあります。
『竜馬がゆく』において、竜馬の手下として働く「寝待ノ藤兵衛」という泥棒がいます。
司馬流に魅力的なオッサンです。
ところがこの藤兵衛、8巻のどこかでいきなり江戸へ帰ってしまい、竜馬の下働きをやめてしまうのです。
しかも、それは書き置きを残して(たぶん書き置き)江戸へ帰ったという1文があるだけで、あれだけ竜馬のために働いたのにずいぶんと急な、いわば雑な退場です。
そこから竜馬の世話をするのが藤吉という男に変わってしまいます。
あれだけ藤兵衛を活躍させたのだから、藤兵衛にも劇的な最期なり別れがあるのかと思いきやあっさり1文で片付けるのは確かに雑かもしれないですね。
そんなことを思いました。