書くことは抑止力

 文章を書くことは、抑止力になってしまうとわたしは考えている。

 つまり、例えば新聞を書くとして、それにある身勝手な自己主張を書くとする。しかし、身勝手で読むに値しないと考えたとしても、購読者の家へは自動的に配達されてゆき、読むことになる。

 そういうことなのだ。

 少し例としてはわかりにくかったかもしれない。

 文章というのは、目にした瞬間にある程度のイメージが体の中に残るものだとわたしは思う。つまり、前の例を前提にすると、自分の考えとまったく違うことがあるという情報があらかじめインプットされてしまうことになる。

 実際にその知識が目の前に立ち塞がることは少ないとしても、その道は、まったくの平坦な土地ではなくなってしまっているわけだ。この、視野にちょっとだけでも入ってしまった情報が、人の行動の切っ先に、ほんの少しではあるが「間」を生み出してしまうのではないか。これがわたしの考える文章の抑止力だ。

 実際に人の行動を制約してしまうような文章は少ない。けれども、間接的に制約(のような形)になってしまうことがあるのではないか……。

 文を書く立場の人間が、これを悪用しないなどとどうやって証明できるだろうか。誰も証明できないだろう。

 たくさんの購読者がいる新聞が、間違った情報を元に何か書きまくったらどうなるだろう。世論が、ほんのわずかかも知れないが動きだすかもしれない。文章を書く立場の人間は、よほど深く考えて文を書くべきである。

 毎日書かなきゃいけないから、スピードが大事、なんていうのは詭弁である。人を動かしてしまう可能性のある文を書く媒体は、理想を言えば推敲や検証になるべく時間をかけ、正しい情報と公正な文章づくりをしなければ絶対にダメだ。

 はっきりいって、紙の新聞に速報性を求める人は現在となってはほぼいないだろう。そして毎日出版しなければいけないなどと、そんなことは一体誰が決めたのか。別に毎日なくたって、生活に困窮するわけではない。

 新聞に限定して言えば、速報性などまったく気にせず、自分たちの立っている立場をよく考えた文章を載せるべきだとわたしは思う。

 公正でなければならないとはいわない。必ずしもそうではないし、人の意見が新聞に反映されてはいけないとは思わない。つまり、新聞自体がある意見の方向性を持っていたっていいと思う。その方向性があるから、売れる新聞もあるし第一どの新聞を買うのかはまったく購読者の自由なので、この点だけいえば、新聞は何を書くのもおおよそ自由だ。

 が、しかし、大きな新聞社ほど注意するべきである。世論を形成する力が強いからだ。大きな力を持っているほど、その力の使い方にはよくよく用心しなければならない。

 抑止力とは、そういうものだろう?