まじる

「あの若造め」

「このくそじじいが」

 よくある対立だと思う。若者にとっては、年上の者の固まりきった(ように見える)考えというのは、非常にめんどくさくて、うさんくさいものだ。年長者にとっては、若者のような血の気に走った考えは、いかにも危なっかしく見えるものなのだろう。

 若者は若者らしく、血の気に走っていろいろなことに考えを及ぼすのは大事だと思うのだ。若くて、感受性が豊かなうちに、いろいろな考え方を体験してみるのはとても重要なことだ。のちの考えの基礎となるものを、「若者」のうちに身に着けておくべきなのである。

 では、じいさんはどうしたらいいのか。

 若者の中に混じるべきである。

 ジジイ同士で話すのもいいことだ。決して悪いことじゃない。けれど、どうしても話の内容に新鮮さが欠けてくるに違いない。年を取ることは、自我というものがより強固になってくるという面を強く帯びている。当たり前のことで、いろいろなことを経験していくのだから、その経験に応じて自分の反応する方向性というものはある程度固まってくる。

 そんな時に、ぜひ若い連中と話し合ってほしいのである。彼らは、経験も浅いし、役職も持っていない。年寄りから見れば、取るに足らないあぶなかっしい存在かもしれない。けれど、そんな不安定で、どんな方向にも転ぶことのできる可能性を持った存在。それに触れることができれば、「ジジイ」の固まった思考も、ほぐれてくるというものであろう。

 若者に年取ったもののことを体感してみろ、というのはあまり意味がない。どちらにしろ、彼らだっていつかは年寄りになるのだし、むしろ、年を取った連中にこそ、若いころを思い出せと言いたい。誰だって、最初は若かったのだ。若いときのことを思い出してほしい。金も地位もなかったけれど、ハングリー精神だけは誰よりもあった。そんな時代が、多かれ少なかれ、誰にだってあるものじゃないだろうか。別に社長になって社会を変えるとか、そんなくそでっかい考えじゃなくてもいい。、なにか、燃えるものがあったんじゃないか。会社に入るからには、たくさん稼ぐぞとか、モテたいぞとか、そんな野望があったんじゃなかろうか。それがだんだん現実を知って、社会というものに悪い意味でこなれてくると、忘れていってしまう。いつしか考えが固まってきて、いつの間にか「若造め」なんて考える年になっている。

 どんな時代でも、解決されることはない問題だろう。若者と年長者。この構図は変わるはずがない。しかし、その構図が変わらないことを知ったうえで、「行動する」ことができるのならばあるいは、変わってくることがあるかもしれない。どちらだけのためでもなく、うまく働くことがあるかもしれない。その可能性を、捨ててはいけないと思う。