本の価値

 晴れの日は気分がいい。そうだろうか。雨の日だって楽しいことはある。晴れの日だって、いやなこともある。

 宮沢賢治の本に、そういうことを言っているものがあった。なんだったか、クラムボンというものが出てくる本だ。

 寒い冬にも楽しいことはあるし、草木が芽吹く春にも悲しいことはある。どんな時も前を向いていけ、というようなものだと解釈した覚えがある。

 本を読むときに、読み方を複数持つことができる人がいるらしい。私にはとてもできない。物語にとても集中するので、先なんて予想している暇がないのである。推理小説(シャーロックホームズが好きだ)なども読むけれど、犯人というものを予想したことがないのが私の性格だ。

 推理小説の醍醐味とはなんなのだろう。犯人を推理して、主人公と同じ解決に到達してから読み終えることなのだろうか。私は、それじゃ面白くないじゃないかと思う。推理している暇を与えないくらい引き込まれる物語の方が、私は好きだ。

 基本的に、一度本を読み終えると、私は数年間はそれを読み返さない。自分の中ではその物語は終了したのであり、また苦難の道のりをたどるのはちょっと苦しいからだ。

 個人的に、読む本を選ぶ基準としているのは「出版から10年以上たっている」というのが、結構重要だ。新刊というものはほとんど読んだことがない。争って買ったのは、ハリーポッターシリーズくらいだろう。10年たっても刊行されている書物は、それなりに価値がある。自分であれこれ作家を開拓するというのも楽しいかもしれないけれど、私としてはハズレを引きたくないのである。なぜなら、読書というのはそれなりに時間がかかるものだからだ。1日のうちのかなりの時間を、たった1冊の本のために割かなければいけない。読書というのは、案外献身的な行為だとも考えられる。献身といっても、やはり本を読むのは自分のためではあるのだが、1冊読む時間があるのなら、その時間によほどほかのこともできるというものだ。

 読書は人生を豊かにする。それは音楽と一緒である。でも、できることなら読むだけで終わりたくない。音楽も同様に、聞くだけで終わるのは非常にもったいない。やってみるべきなのだ。小説を書けとは言わないけれど、読書したらそれを生かす道を考えたらどうだろう。話のタネにしてもいいかもしれないが、本を消費して、そしてそれをまた会話に消費するのではあまり意味がないのではないか?

 私は、娯楽小説というものが嫌いなのだ。読む、すっきりする、終わり。なんて生産的ではない。読書は教養を深めるためのものである、という側面を私は強く信じている。すっきりしたいだけなら、本なんて読まなくていい。スポーツをするか、映画を見る方がよっぽどすっきりする。

 実際の価値として、娯楽小説は残らない。後世に残らないのだ。ただ、娯楽小説でも読む価値のあるものがあるかもしれない。そんな時は、「出版から10年」のルールを当てはめてみるといいだろう。

 読書に関する価値観なんてものは、人によって違っていて当たり前だ。本を読んで、満足する。最終的には、そこにかかっているのだろう。

 晴耕雨読の生活。いつかやってみたいものだ。