力を抜いて

 この頃、写真を撮っていない。カメラの手入れはしているのだけれども、なかなか「これだ!」という被写体が見つからないのである。

 けれど不思議なもので、自分で「これは素晴らしい!絶対うける!」と思って撮った写真が案外うけなかったり、なんとなく撮ってみた写真がいい評価を受けたりすることがある。

 仕事や、何かの機会にすごく考えに考えて企画を作ってみても、それがうまくいかなくて落ち込むこともある。これもまた同じ用に、テキトーにやってみておいた企画がうまくいってしまうことがあるのだ。

 なぜか。

 それはまあ、様々な理由が場合によって存在するのだろうけれど、ここでは「肩の力が抜けているといい」という仮説を立てることにしよう。

 てきとう。という言葉には適当、つまりちょうどいい具合という意味もある。

「適当にやっといて」

 というのは大体のところでいい具合になるようにやっておく、という訳ができるのではないだろうか。

 それと似たものに「いい加減に」という言葉がある。こちらは、どちらかというとネガティブなイメージが強い。いいかげんだ、これはネガティブ。良い加減だ、これはポジティブ。

 つまり、写真や企画を作るときに、うけたい、とかうけるだろうというように「狙って」つくると、人にはなんだか嘘くさいにおいが感じられてしまうのではないだろうか。そして妙に作り手の力が力んでいるので、見る方が疲れるというか魅力を感じられない。「これは魅力的ですよ」といわれて見るよりも、自ら魅力を見つけた時の方が感動は大きいものなのだ。

 写真を撮るとき、カメラを持つ人はそれをよりよく写そうとするだろう。でも、どんなに高性能なカメラを使っても、本物の魅力に勝ることはできない。肩の力を抜いて、真実を写すこと、それを心がければ、自然と写真は応えてくれるのではなかろうか。うまくとってやろう、という邪心が、写真の中にも写っている……なんて。