楽しんで書くこと

 しばらくエッセイを投稿していないので、書いてみようかと思う。

 書くということ自体は、毎日やっている。日常的な作業である。私の場合、それがちょっと普通の人と違うのは、好んで原稿用紙を使うということだろう。

 原稿用紙、と言われるだけで、アレルギー的な反応を示す人も結構いる。どうも、小学生の時の読書感想文がトラウマらしい。私だって、読書感想文の宿題は全く好きではなかった。しかしいつからだろうか、創作することが、この上なく楽しいことになったのである。

 真っ白な原稿用紙というのは、その存在自体が可能性の塊である。どんな物語だって、主義主張だって、書くことができる。ところが、「真っ白」というのは、人によっては一番厄介なものらしくて、落書きするのだってはばかられる、というのもよくあると思う。

 落書きというのは、いざ「やってください」と言われたとたんにできなくなってしまう。私の経験上はそんなものである。会議中とか、授業中とか、本来なら集中すべきことがあるときこそ、われわれ人類の落書き脳は活性化するのだ。真っ白なスケッチブックを渡されて「さあ、落書きをしてください!」といわれたら、人は嬉々として落書きをするだろうか。おそらく、 やらないだろう。「このプロジェクトをぜひ成功させましょう!」なんていわれて、プリントを渡され、だんだん退屈になってくるほど落書きはさえてくるものなのだ。

 じゃあ、私が原稿用紙に向かって何をしているのか、と考えると、それは日常の息抜きであり、息抜きという点では落書きと大差ないかもしれない。原稿を書いてお金が稼げるような身分ではないし、そもそも原稿料で稼ぎたいとは思っていない。それこそ、「さあ、やってください」と言わんばかりで、書く文章もつまらなくなってしまうのではないかと感じている。

 文章を書く上で大切なのは、思ったままを書くことなのだ。仕事とか、社会とか、そんなものを考え始めた途端に、つまらなくなってしまうものなのではないかと思う。そして、書いていくほど、「書くこと」に手馴れていくだろう。しかし、この慣れというものは厄介で、慣れないように慣れていくことが、また重要なのだ。文章は新鮮でなければならない。使い古された文章なんて、書いていても読んでいても、まったく面白くないからだ。

 楽しむこと。それが一番大事なのである。